マルクス主義の仮説:アラン・バディウの「コミュニズムの仮説」への反論
クリス・クトローネ
バディウに反対して
アラン・バディウの最近の著書(2010年)は、過去数年間彼とスラヴォイ・ジジェクの著作を通して売り込まれた表現である「コミュニズムの仮説」と名付けられている(1)。これは、新左翼レビューに掲載されたニコラ・サルコジの2007年の当選の歴史的意義についてのバディウの2008年のエッセイ(2)の題名でもある(3)。そのエッセイでは、バディウは次のように彼の共産主義に対する考え方を説明する。
コミュニズムの仮説とは何か?一般的意味では、正典たる「共産党宣言」で説明されたように、「共産主義的」という概念が意味するのは、階級の論理——古代から続いてきた体制である支配的階級への労働の基本的従属——が必然ではなく、超えられうるということである。コミュニズムの仮説によれば、新しい協同的組織は実現可能であるし、この組織は貧富の差だけではなく分業さえも廃止しうる。巨大な富が私的に取得され、継承によって移管されることはなくなるであろう。市民社会から離れた強制的国家の存在はもはや必要性と見なされない。生産者の自由な協力体に基づく再組織化の長い過程は国家の死滅をもたらす。(4)
バディウはこう続ける。
平等の純粋なイデアとして、「コミュニズムの仮説」は国家の始まりから存在してきたに違いない。平等主義的正義の名の下で国家の強制に反対する大衆的行動が起こるときに、この仮説の基礎また端緒は現れ始める。例えば、大衆的蜂起——スパルタクスによって指導された奴隷、ミュンツァーによって指導された農民——は「コミュニズムの不変式」の実例とみなすことが可能であろう。フランス革命に伴い、コミュニズムの仮説は政治的近代性の時代を開始する。(5)
こうして、バディウは「コミュニズム」を文明の歴史にわたる永続する逆行と定義する。
バディウは、彼が呼ぶ「コミュニズムの仮説」の近代史を1792年~1871年の時代と1917年~1976年の時代という二つの大まかな時代あるいは「シークエンス」に分ける。バディウは、革命的フランス共和政の共和暦元年からパリ・コミューンの敗北までの一つ目のシークエンスを「コミュニズムの仮説を準備する」時代と定義する。十月革命から文化革命の終わりと毛沢東の死亡までの二つ目のシークエンスを「コミュニズムの仮説を実現する最初の試み」の時代と定義する(6)。
バディウは、彼によって描かれた歴史的軌跡に残っている二つの時代、1871年~1917年の時代と1976年~現在の時代を「敵が優勢になっている」「コミュニズムの仮説は不可能だと宣言された」「インタバル」と特徴付ける(7)。
しかし、1871年~1917年の時代には(ベル・エポックにおけるブルジョア社会と文化の最後の偉大な最盛期と平行しており、より正確に言えば結びつきながら生じた)マルクス主義の著しい成長と発展が見られ(8)、この時代は戦争と革命の危機に至ったが、バディウの話は、これを触れないーもっと適切に言えば、これを回避する。つまり、この時代はマルクス主義そのものとマルクス主義の歴史における意義についての問いを提起する。
マルクス主義の仮説
バディウに反対して、他の歴史上の時代区分を、そしてそれゆえに他の出来事を中心とする歴史を提起することもできるだろう。 数千年前に文明の誕生における国家の起源に遡るバディウの「コミュニズムの仮説」と異なって、「マルクス主義の仮説」は、資本主義に基づく特異的な近代的社会の歴史、19世紀半ばに始まるマルクスと他のマルクス主義者の説明によって特徴付けられた資本の歴史の様々な段階を把握しようとするであろう。しかし、ニーチェ学者のピータ・プルースが言ったように、「19世紀は歴史を発見し、その後のあらゆる研究や教育はこの発見の刻印がついている。これは、単に過去についての一連の事実ではなく、人類の歴史性の発見であった」(9)。
マルクスは、十九世紀の発明としての歴史に対する批判的認識を発展させた中心人物である。(10)(歴史に対するこのような意識に関連する名前はヘーゲルとニーチェである。この三人の思想家を関連付けるのは重要で根本的問題であり、マルクス主義者によって長年考察されてきた。(11))
マルクス主義の仮説は、マルクスが『共産党宣言』から『資本論』まで一生を通じて提起した問題に対する理論的かつ政治的取り組みに基づいており、マルクスによって触発され、マルクスに追随しマルクスを展開しようとする政治的理論と活動を含む。この問題とは、資本の歴史的特異性、そしてそれゆえに歴史の歴史的特異性ということである。というのもマルクス主義の仮説とは、資本はカントが「普遍的歴史」と呼んだものの起源であるということであるからだ。(12)
バディウによる「コミュニズムの仮説」の歴史と違って、「マルクス主義の仮説」の歴史は、複雑で多層的であり、リニアではなく非−出来事的でもある。これはマルクス主義の歴史における時代に分けられる。これは、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』の発行からエンゲルスの死亡までという1848年~95年の時代から、戦争と革命におけるマルクス主義の危機という1914年~1919年の時代まで、そして、ポストボリシェヴィキマルクス主義という1923年~1940年の時代から、「新左翼」と「共産主義」の崩壊という1968年~1989年の時代までである。これは、マルクスが「資本」と呼んだものの歴史として考えられたマルクス主義の歴史における時代である。これは、マルクス主義の歴史において表された資本と資本の潜在的克服の歴史である。(13)
この歴史は、カール・コルシュが1923年の「マルクス主義と哲学」のエッセイで取り組んだ必要性に触発されている。それは、マルクス主義自体への歴史的唯物論の分析と批判、つまりマルクス主義に対するマルクス主義的歴史と理論という必要性である。(14)これは、マルクスと最良のマルクス主義者が理解したように、マルクス主義の発生、危機、そして退化の歴史を資本を超える可能性を表す歴史となりうるだろう。今日、1923年のコルシュの時代と違って、マルクス主義的歴史は、マルクス主義が表した潜在力が機会を逃し、幽霊のような劣化した状態としてのみ持続していき、最終的な結果として消滅したという可能性を考察することも含むであろう。そのような理論が可能であるということが、マルクス主義の基本的「仮説」、マルクス主義は観点と政治として、近代史の中枢でありうるという「マルクス主義の仮説」を触発するものである。というのも、マルクス主義は、根拠に基づいて、大きな物語の中の最も大きな物語であるからだ。今日、重大な問題とはマルクス主義とは何であったのかということである。
20世紀に多くのマルクス主義者にとって(したがって、バディウにとっても)、第二インターナショナルの政党の成立と成長が起こった1871年~1917年というマルクス主義の時代は、マルクス主義的な革命的政治が改良主義によって歪曲された「修正主義」の時代であった。しかし、この時代は、ベーベル、ベルンシュタイン、カウツキー、プレハーノフなどというマルクスとエンゲルスの亜流の改良主義という形をとる修正主義に反対する闘争の時代でもあった。この改良主義に反対する闘争は、マルクスの弟子から学んだ学生によって行われ、学生が先生にがっかりし、先生にしのぐ複雑で歴史的に重要な変化を表した。(15)
第二インターナショナルにおける改良主義に反対する闘争の最も重大な成果は、10月革命のボリシェヴィキによる指導と、失敗してしまったが、その次のドイツ、ハンガリー、イタリアにおける革命と、「共産主義的」第三インターナショナルであった。(16)1914年~19年の戦争と革命という世界的危機は、その前にもそのあとにもなかった仕方で資本の危機を政治という場に引き上げたマルクス主義の黄昏(Götterdämmerung)としてみなさなければならない。1914年~1919年のマルクス主義の危機は、マルクス主義者の間の内戦であった。一方の陣営に、第二インターナショナルに育ったが、その組織を分裂させ、第三インターナショナルを成立させた急進主義的な若い世代の中でとりわけ優秀なレーニン、ルクセンブルク、トロツキーは、世界を変革するという歴史の中の最も重大な試みを指導したのだ。彼らは、彼らにもたらされたマルクス主義における分裂を人類の解放の必要性を表す出来事としてみなした。(17)今日からすると、その試みは失敗であったと判断しなければならないのは、深長な——そして深遠にぬえ的ーその革命の性格を変化させるわけではない。(18)
マルクスによって触発された第二インターナショナルの急進主義者の革命の重大性は、過小評価されてはならない。マルクスと彼の弟子にとっては、資本の時代は歴史の頂点であると同時に共産主義における、前史の終わりと人類史の本当の始まりという可能性でもあった。(19)ベンヤミンが書いたように、「必要であれば、人類は文明を捨てて生き延びる準備をしている」。(20)つまり、長い間続いて来たような文明を捨てて生き延びる準備をしている。(21)
マルクスという幽霊
マルクスとエンゲルスは共産主義という「妖怪」について書いたが、現在にはマルクスの記憶が世界につきまとっているのだ。この違いは認識されねばならない。なぜなら、マルクスとエンゲルスは政治的運動——共産主義——に依拠することができたからだ。彼らは、その運動自らの歴史的意義に対する自己意識をもたらそうとし、その運動を明白にしようとした。それと違って、今日、われわれは歴史的な政治運動よりマルクス主義に表現された批判的意識の形態の方を思い出さなければならない。これはマルクス自身の思想と政治的活動に由来すると確認されなければならない。
マルクスは実際に共産主義への(内側からの)最も鋭い批判家であるのに、それと違って「共産主義」を肯定し促進する人だと誤解されたら、われわれは、資本における潜在力に対する意識という歴史の最も重要で儚い成果を忘れる恐れがあるだろう。マルクスは彼の1843年に「あらゆる現象への容赦ない批判」を呼びかけるアーノルド・ルーゲへの手紙で書いたように、「共産主義は独断的な抽象であり…人間主義的原理の特定の表現の一つでしかない。自らの反対である私有財産に感染されている。」(22)
資本の近代史においてマルクスに認識された共産主義によって表された解放された人類という可能性は、それはマルクス主義以前の社会主義と非マルクス主義的社会主義と同じであると主張できない。マルクスの思想と政治はローマに反対するスパルタクス奴隷反乱あるいは使徒の教義——あるいはプロテスタントかジャコビンの急進的平等主義——と連続しておらず、性質が異なる。マルクスが書いたように、「共産主義は次なる未来の必然的な形態であり、エネルギーに満ちた原理ではあるが、それ自体が人間の発展の最終的目標ではないし、「人間」社会の形態ではないのだ」(23)。共産主義は、資本における不満の形態として、一方的な支持ではなく、自らの意味への批判的明確化を要請した。というのもマルクスは共産主義自身が目標ではなく手段であると思ったからだ。
今日、「共産主義」ーバディウの意味においての「急進的な民主主義的平等」への要求ーは政治的に存在し続ける一方、「マルクス主義」は存在しないということは何を意味するだろうか。バディウによる文明の歴史における近代的共産主義の歴史の区分は、マルクス主義をその歴史における一つの構成要素として溶解させてしまう——少なくともマルクス主義をこの歴史の中に隠してしまう。しかし、マルクスは、自分の思想と政治において、特定に近代的現象の共産主義、つまり十九世紀に生じる近代的社会民主主義的な労働運動を資本の構成要素として、歴史的に特異な人類の形態として把握し、それを超えようとした。では、今日には、資本の近代社会の歴史をマルクスという人物を通じて考察することは何を意味するだろうか?そのようなプロジェクトの可能性はマルクス主義の仮説である。
「マルクス主義」
数ある中でエンゲルス、カウツキー、プレハーノフ、レーニン、ルクセンブルク、トロツキー、ブハーリン、ルカーチ、スターリン、毛沢東などのマルクスの後の最も重要な歴史的人物を解明するにはマルクスの支持者として評価するのが非常に役に立つ。彼ら自身が自分の政治的思想と活動をマルクス主義を通じて正当化しようとしたのは——そして、そうすることで、彼らの政敵によって偏狭な独断論者、宗教としてのマルクス主義の信奉者とみなされたのも——意義がある。しかし、彼らはどのようにマルクスに従っていたと思ったのだろうか?過去二世紀の最も重大で深い政治運動は「マルクス主義的」と自称し、絶えず内的論争においてマルクスの言葉を引用して闘争した者に指導されたことに対してどう理解すべきであろうか?そのような論争では何が議論されたのか?そして、マルクスの意味に対する不一致は、当時に、そして現在にも、何の政治的結果を生み出すのか?
確かに、マルクス主義は宗教だと糾弾され、マルクスは預言者だと糾弾された。(例えば、レシェク・コワコフスキはマルクス主義を「人間の束縛の茶番的要素」としてはねつけた。(24))しかし、哲学者としてのマルクスとは何であろうか?マルクスは政治的思想家として一般的に信頼性を傷つけられたとしても、それにもかかわらず、例として、2005年に、BBCの聴衆の世論調査では、ソクラテス、カント、ニーチェ、などよりマルクスの方が「過去最高の哲学者」として選ばれたのだ。一見したところ、これは、マルクス自身の思想と活動の観点から、あるいは分野としての「哲学」の観点から、マルクスに対する特にもっともらしい判断ではないように見えるが、もしマルクスの哲学を、近代社会における問題がまだ克服されていないことを示すものであると定義すればこの解釈は適切であろう。(25)マルクスの思想家としての評判について言えば、われわれはマルクス自身の「共産主義的」政治なしで「マルクス主義」を残されてしまった。「マルクス主義」は「分析」として生き残っているが、実践上には明確な成果が見えない。「共産主義」は倫理として生き残っているが、効果的政治は存在していない。われわれはこの状態をどう理解すべきであろうか?
マルクス主義の仮説とは、マルクスと「共産主義」の関係が改めて問題として提起される必要性があるが、これは、マルクス主義の歴史に批判的な光を当てるような非伝統的手段で行われるべきであるということである。というのも、マルクスは共産主義運動における良い同志であったわけではなく、むしろ、マルクスの思想と政治的活動は、われわれにとって課題となりえ、われわれが未だに追求しようとしなければならない、完全に唯一の模範であるからだ。まだ存在し続ける「マルクス主義」の潜在的魅力について考えなければならない。バディウが提起した「共産主義の未来とは何か」という問題なのではなく、「マルクスの未来とは何か」が重要な問題であろう。
マルクス主義のあらゆる潜在的可能性に取り組むには、マルクス自身のマルクス主義とその影響を再考するのは必要である。
1848年におけるマルクス
マルクスは、『共産党宣言』を書いた後直接に参加したドイツにおける革命について、資本家はプロイセン国家が自らの権利を奪い取ることより労働者が自らのブルジョア権利を主張することの方を恐れたと指摘した。これは、資本家とユンカー(プロイセンの土地貴族)の間には対立的階級利益があったからではなく、むしろ世界的な規模で、産業革命後の資本に支配された社会には権威主義が生じつつあったからだ。このような権威主義はフランスにおける1848年の革命を特徴付けた。一番目に選出された第二共和政の大統領(1848年~1852年)として、そしてクーデター後の第二帝政の皇帝(1852年~1870年)としてのナポレオンのおいであるルイ・ボナパルトの政権は、(マルクスがいわゆる非ブルジョア的「農民」をあからさまに「プチブルジョア的」と呼ぶと言い張ることから見られるように)非ブルジョア階級の利益を表すものだと特徴付けられることが可能ではなく、むしろ、十九世紀半ばまで危機にある、ルンペンプロレタリアートも含む、ブルジャ社会のあらゆる階級を代表するものだった(26)。
マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』(1852年)に指摘したように、社会的秩序の名において、政府によって秩序に熱狂したブルジョアが彼らのバルコニーで射撃されて殺された(27)。十九世紀後期のナポレオン3世とビスマルクーそしてディズレーリーの政権は鏡像のようによく似ていた。マルクスは国家が市民社会の上に上がるように見える一八四八年社会後の権威主義を、ブルジョアがもうできなくプロレタリアートはまだ資本を支配できない状態として分析した(28)。これは、マルクスが認識したブルジョア社会の危機のことである。その一方で、バディウは、支配する階級権力は支配された者の抵抗と対立するという歴史を語る。一八四八年早くに、マルクスは階級ではなく資本に対する理論家であり、近代的な社会的政治的階級は資本の「幻影的」映写である(29)。マルクスは、資本を階級闘争の歴史において位置づけるわけではなく、歴史を資本に(30)位置付けようとした。社会的闘争とその歴史は資本に従属している。(31)
資本主義、共産主義、「自然状態」
ルソーは、近代的社会を批判するために、仮説上の「自然状態」を提起した。そうすることで、彼は社会を「自然状態」に近づけさせようとした。リベラルなブルジョア社会は、ルソーにとって模範であり目標であった。ルソーにとっては、人間性とは自由であることにあった。(*)人間は、自然において「物質的」な自由を持つ動物として楽しめる自由より高い「道徳の自由」という「市民的自由」を社会において成し遂げた。確かに、動物として、人間は自由ではなく、生物的な要求と本能の奴隷である。社会においてのみ自由は実現可能であり、人間は「自然」における動物的状態から自らを解放しないといけない。(32)十八世紀半ばルソーが書いていた時に、ブルジョア社会における自由という約束はまだ可能であった。ブルジョア社会は人類を、個人的かつ共同的に自由をよりよく実現するために、潜在力を引き出せるように、「自然状態」に近づこうとしていた。マルクスでは、共産主義も潜在力の実現を目指した。損なわれていない人間的潜在力の「自然状態」より近い「原始的共産主義」というイメージは解放としてのブルジョア社会というルソーのビジョンを繰り返した。しかし、資本主義において、ブルジョア社会は自分が約束した可能性を裏切るようになった。ブルジョア社会は、ルソーの意味においてではなく、ルソーが批判したホッブズの意味、つまり社会は「万人の万人に対する戦争」という意味においての「自然状態」になった。ブルジョア社会は、(ホッブスが意味したように)敵対行為の停止ではなく、自由の実現であるとされた。しかも、社会における人類は個人のメンバーに還元できない、部分の和より大きい「一般精神」を示した。社会は、レヴィアタンではなく、個人的かつ共同的な潜在性の再生である「第二自然」であった。人間の本性は、社会において自由の実現を見出したが、人間は、良い方向にも悪い方向にも自らを発展させ、変化させる自由があった。社会を「自然状態」に近づけるのは、人類の潜在性をよりよく発揮させるということであった。マルクスによると、共産主義は、ホッブスではなくルソーに習い、ブルジョア社会の潜在性を引き出し願望を実現するとされたのだ。しかし、最初に、共産主義は自分の目標に対して明確でなければならないとされた。
共産主義:資本に支配されるブルジョア社会に反対するではなく、ブルジョア社会における、ブルジョア社会を通じての、ブルジョア社会を超えるものとしての
マルクス主義仮説というのは、マルクスの思想と政治は近代社会の歴史だけではなく人類の歴史における重要な変化の時代に対応しているということである。この変化の時代は、「産業資本」の発展とそれに伴っている「社会民主主義」に特徴づけられた。この時代には、労働運動は社会的民主主義を要求したが、マルクスはこの運動は自分の目的を達成するために意識を高める必要性があると思った(33)。マルクスは、産業資本の出現を近代社会における危機を示すものだ——あるいは、「自然史」(34)における危機を示すものでさえある——と特徴付けた。エンゲルズに従いながらルクセンブルクが言ったように、この危機に直面することは、人類が、「社会主義か野蛮」(35)という決定に直面していたということであった。なぜなら、17世紀〜18世紀の「マニュファチャー資本」という前資本主義の時代に現れたリベラリズムと民主主義という伝統的なブルジョア的政治形態は、19世紀以来近代社会の問題と課題を解決することに不十分になったからである。人類は新しい、予言されなかった課題に直面しているとマルクスは指摘した。しかし、解決されていない状態にあるこの課題は、現在無視されるようになってきた(36)。
「資本」という変容された状態において、リベラリズムと民主主義は、まさに自らの不可能性という面において必要になり、自らの「弁証法的」なアウフヘーベン(止揚)——否定あるいは自己克服による完成と乗り越え——の可能性を指し示した(37)。リベラリズムと民主主義は、資本主義において、お互いに矛盾的になっただけではなく、自己矛盾的にもなった。バディウとジジェクが理解するのに反して、共産主義はリベラル民主主義に敵対しているわけではない。マルクスにとって、共産主義というのはリベラリズムと民主主義の必要性の克服、あるいは「ブルジョア的」政治の必要性そのものの乗り越え、の可能性を指し示した政治運動であるということであった。しかし、これは労働階級のブルジョア権利の実現への要求を通じて達成されるとされた。マルクスは、彼の生きている時代に現れた社会主義と共産主義を、遅れている現象であり、そしてそれゆえに、自己矛盾的で一貫しないという可能性のあるブルジョア的急進主義——ブルジョア社会の急進化——の形態を表すものとみなした。それにもかかわらず、この政治形態は成就を要求したと彼はみなした。マルクスは、「より良いリベラリズムと民主主義への要求」を超える可能性を資本において目指していた。マルクス後の「共産主義」はこのビジョンを見失い、20世紀における社会主義対リベラリズムというアンチノミー(二律背反)に陥ってしまった(38)。マルクス主義仮説とは、マルクスはブルジョア社会への反対ではなく、ブルジョア社会における、ブルジョア社会を通じての、ブルジョア社会を超える質的変化の可能性を認識したということである。|P