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資本におけるセクシュアリティとジェンダー

April 9, 2019
by Houston Small

この発表では、私はカモノハシ協会の読書会で読む色々なテキストから霊感を受けているが、引用はしない。そのテキストは、ジェルジュ・ルカーチの『歴史と階級意識』(1923年)、テオドル・アドルノのエッセイ「性的タブーと今日の法」(1963年)、ジョン・デミリオのエッセイ「資本主義とゲイ・アイデンティティ」(1983年)、及び(『時間、労働、支配』1993年に著された)モイシュ・ポストンによるマルクスの資本批判に対する再解釈である。
1966年にニューレフト・レビューで掲載されたジュリエット・ミチェルの画期的エッセイ「女性:最も長期にわたる革命」から引用して始めたいと思う。これは、資本におけるジェンダーとセクシュアリティの問題に対するマルクス主義的アプローチを考察するにあたって、この発表で探求したいいくつかのカテゴリーを設定する。
社会主義とは、変化、生成の過程である。将来に対する固定されたイメージは、最も悪い意味で非歴史的であり…マルクスは「共同体の経済構造」で書いたように「進歩とは人間の創造的素質を絶対的に表出させること、この発展―すなわちあらゆる既存の尺度では測られない全人間力そのものの発展―の全体を、目的それ自体として表出させること…生成の絶対的運動に身を委ねる状況ではなくて何であろうか?」…社会主義の下における女性の解放は、歴史と社会の定義としての、自然から文化までの長期の過程における人間的成果となる。(37)
ここでは、ミチェルは「生成」という問題を強調してエッセイを終わらせる。「生成」とは、資本が可能とすると同時に束縛するジェンダーとセクシュアリティの無制限の変容と言えるだろう。
ジェンダーとセクシュアリティに対する(マルクス主義を含む)左翼の考え方の歴史という問題を描写するために、20世紀に起こった、あまり認識されていない変容に取り組めば十分であろう。それは、1930年代~40年代の「旧左翼」と1960年代~70年代の「新左翼」の間にある、資本に対する不満の社会的想像力とイデオロギーの変容であった。「旧」左翼の時代には、労働階級が資本に対して不満を抱く理由は――19世紀の労働運動が不満を抱く理由と似ているところもあったが――資本主義は労働階級の家族生活と性生活を蝕むからであった。資本主義は一家団欒を壊し、男性だけではなく女性も子供も搾取することによってブルジョア的家族という形態の利点の享受を阻んだとされた。これに対して、20世紀後半の「新」左翼の時代には、資本主義に対する不満の形態は変化した。資本主義は女性も子供も(及び男性も)「ブルジョア的」家族の受刑者にしたとされた。旧左翼の時代に資本主義は労働者の家族生活を妨げるとみなされたのに対して、新左翼の時代に資本主義は伝統的な家族形態に頼るから労働者をその形態に閉じ込めようとしていたとみなされた。家族を持つ自由が要求されたのに対して、資本主義とともに家族を廃止することが要求されるようになった。いわゆる「マルクス-レーニン主義」、つまりスターリン主義、毛沢東主義、ゲバラ主義などの共産主義にとっては、家族は「社会主義のための小規模部隊」であったのに対して、「新左翼」のマルクス主義者にとっては家族は資本主義の防壁の一つであった。これと同様に、いわゆる「マルクス主義」によって同性愛や他の「倒錯」は「ブルジョア的頽廃」の結果とみなされたのに対して、「新左翼」は、性的解放は大事にした。この変化はなぜ起こったのだろうか?
逆説的に、今日に、同性愛をめぐる政治の一つの中心的観点は「家族」と結婚の同等の権利への要求であることからすると、左翼におけるジェンダーとセクシュアリティに対する考え方の変化は単純に「進歩」への移行であるわけではない。マルクス主義者は、ジェンダーとセクシュアリティに対する抑圧という問題の深さを知らなかったが、60年代にそれを気づいて、資本への批判にジェンダーとセクシュアリティの問題を加えようとするようになったわけではない。というのも、ミッチェルが指し示すように、マルクスとエンゲルスだけではなく、彼ら以降のマルクス主義者も、例えば、ドイツ社会民主党の指導者であるアウグスト・ベーベル、及びレーニン、ルクセンブルク、とトロツキーのような若い政治運動家も、資本を克服するためにジェンダーとセクシュアリティという問題が重要であることを認識していたからだ。例えば、19世紀後期に、アウグスト・ベーベル は初めて同性愛の非犯罪化を要求する近代的議員となった。ベーベルの政党は、第一次世界大戦の最後に起こった1918年のドイツ革命後にヴァイマル共和政として権力を受け継いだときに、同性愛を非犯罪化する初めての近代的民主主義国家となったが、それはボルシェヴィキが1917年のロシア革命においてすでに同性愛を非犯罪化した後であった。1933年のナチズによる権力の獲得とヴァイマル共和政の崩壊が、同性愛を再犯罪化したのだ(ところで、ナチスによって実行された法律の大部分は第二次世界大戦における敗北とともに無効されたが、同性愛に対する規則は無効されなかった)。これとほとんど同じ時期に30年代のソ連では、スターリン主義を通して起こった保守化、ロシア革命の頽廃、という過程のみにおいて、同性愛は犯罪化され、伝統的な異性愛的家族は(例えば中絶の再犯罪化や離婚に対する法的な障壁の再建によって)強化されたのだ。その結果、30年代以降の「マルクス主義者」は異性愛と家族を称揚することと同性愛を病的とみなすことを自明と捉えたが、前の世代のマルクス主義者はそれをそう捉えなかった。
かくて、通説となってきたが正しくない30年代以降の「マルクス主義的」理論は、ジェンダーとセクシュアリティの問題に対して「ジェンダー対階級」という枠組みを提起するか、あるいは「ジェンダー、セクシュアリティ、階級」の「相互関連性」を証明しようとしてきた。しかし、この問題について取り組まなければならないのは、ジェンダーとセクシュアリティに基づく理論は、社会的経済的「階級」に基づく理論と同等に、解放的変革という問題の観点から、資本という問題をうまく描写することであった。そうするために、ジェンダーとセクシュアリティそのものは階級の問題であることあるいは、これはより重要であるかもしれないが、階級はセクシュアリティとジェンダーの問題であることを示すのは必要であろう。というのもジェンダーとセクシュアリティは資本であるからだ。つまり、社会的経済的階級と同じ程度に、資本を再生産する条件を構成するのだ。そして、近代的階級と同様に、ジェンダーとセクシュアリティは資本の歴史によって形づけられてきた。
ジェンダーとセクシュアリティの解放に対するいわゆる「マルクス主義的」反資本主義的アプローチを常々混乱させた問題を解きほぐす一つの方法は、資本に対するマルクス的理論は、抑圧に対する決定論的な説明ではなく、抑圧の可能性の条件に対する説明を目指していることを認識することである。したがって、重要なのは、資本主義はどうセクシュアリティとジェンダーに対する抑圧をもたらすのかを示すことではなく(このような因果関係を示すことが可能ではあるが)、むしろ資本主義をセクシュアリティとジェンダーに対する抑圧と束縛を可能とする歴史的に特定の社会的条件として捉えうるのかを示すことであろう。近代の時代には、性別役割とセクシュアリティは色々な形態をとってきたが、それにもかかわらず全ては問題があり、結局のところ、より良い潜在力を発展させる社会的可能性を束縛しているので、このような捉え方はとくに重要であると言えよう。
18世紀後期と19世紀初期に始まる「資本」という近代的時代は、性生活と性別関係において、いろいろな形態で、ものすごい潜在力を発揮してきた。この潜在力は資本における伝統的生活の克服に備わっている。保守的な人々はこの変化に反応してそれが伝統的価値観の破壊であると主張するが、最初から、マルクス主義者も他の19世紀と20世紀初期のボヘミア的社会主義者もどのようにして、発展の終わりを設定せず、この潜在力を引き出し発展させることができるのかについて興味を持っていた。彼らは資本をこのような変化の過程への束縛、障害とみなした。しかし、それと同時に、彼らは資本主義は解放的変革の必然的な可能性の条件とみなした。すでに起こりつつある変化に対して、マルクス主義者は、この変化は資本がすでに持っていた潜在力を表すものとして捉えた。かくて、マルクス主義者は、資本にもたらされた変化の運動に対する保守的反応とマルクス主義者の反応の間に区別をはっきりとつけたのだ。資本は伝統的生活の土台を壊したが、これは不十分だったとマルクス主義は主張した。なぜなら、近代的資本主義的社会は(新しい形態のある)ジェンダーとセクシュアリティに対する抑圧の再生産を許したからだ。資本は伝統的生活の土台を壊したと同時に、いわゆる「伝統的」生活の最もひどい形態の再発を許した。
アメリカに指導された北大西洋条約機構(NATO)の連合がターリバーンを追放した後にアフガニスタンにおける男児買春という伝統的習慣が再発したことを取り上げたいと思う。この現象は最近のPBSフロントラインのドキュメンタリーによって記録された。ソ連に支配された元従属政権も過激なイスラム原理主義者のターリバーンも、それぞれの手段でそれぞれの理由をもって、アフガニスタンにおける「踊っている男の子」という習慣を抑圧したが、アメリカによる侵略と占領の後の政権は、この習慣を公式的に禁止するが、ほとんどその再発を容認している。なぜなら、ムジャージディーンの兵士は過去30年にわたって彼らの間で「踊っている子」買春という習慣を開発してきたからだ。(ムジャージディーンはソ連の従属政権に反対して戦い、その後にターリバーンによって追放されたが、NATOの干渉後の新しい政権の柱の一つとなった)実際は、70年代と80年代にソ連を支持するアフガニスタンの政権に対するムジャージディーンの反発は、ヒジャブの禁止と女性の教育、女性の公的生活、権利への反対に由来するが、ほとんど同じ程度に、この「伝統的」性的習慣を擁護したい希望の結果だと考えうる。フロントラインのドキュメンタリーにおいて一人の参加者が言ったように、「女性は子供のためであるが、男の子は性的快感のためである」。アフガニスタンにおいて、他のところと同様に、移住を必要とする労働市場も含めて、極貧、大規模の社会的混乱という条件下の貨幣経済による圧力と怪しい「伝統的」文化的価値観との組み合わせは、近代的と伝統的の最も悪い社会的生活の形態をもたらす。マルクス主義的なアプローチはどのようにアフガニスタンの「踊っている子」という現象に取り組むべきであろうか。
単純でわかりやすい答えは存在しないにもかかわらず、現在のアフガニスタンにおける「踊っている子」買春は前の時代に行われた習慣に表面上のみに似ていることは明らかであり、この伝統的習慣そのものも褒めるに値するものではない。フロントラインのドキュメンタリーのリベラルな感性は、アメリカとNATO/EUが支持する政権による虐待を許す政策に反対するよう、西洋の聴衆を憤慨させようとしているように、この習慣は非難しうるし、非難すべきである。しかし、アメリカやヨーロッパに見出せるような典型的ジェンダーとセクシュアリティの形態の適用に基づいて「踊っている子」買春に反対することは、控えめに言っても、問題であり、アフガニスタンにおいて「踊っている子」をやめさせようとしている運動家はどれだけこのような変化が改善となりうると思っていても、問題である。
アフガニスタンにおいてひどい形をとる世代間の同性愛といういわゆる「伝統的」習慣は、明らかに、絶対に男性同性愛の完全な可能性を表すわけではなく、ついでに言えば、児童セクシュアリティの完全な可能性を表すわけでもないのだ。では、この問題の解決はアフガニスタン人の男性に(大人)の女性に対する「通常」の指向と、愛と(異性愛的)親密さに基づく近代的(西洋の)結婚を受け入れさせようとすることではないし、これはともかく現在の社会的条件下においてアフガニスタンのようなところで非常に可能性が低いであろう。しかも、アメリカとヨーロッパのようなところにおいてジェンダーとセクシュアリティの解放について考える人々の中の誰かが指摘するように、現在「ここ」で覇権となってきた性生活と家族生活の典型的形態だけではなく、ゲイ・レズビアン・バイセクシュアル・トランスジェンダーのサブカルチャーに見られる形態も、ジェンダーとセクシュアリティの解放に対して最終決定権をほとんど持たない。この事実と同様に重要なことは、アメリカのようなところにおいて実行された「法と秩序」のある社会で見られるように、性的活動の犯罪化は全く解決とならないということである。
ジェンダーとセクシュアリティという問題に対して他の問題を取り上げたいと思う。それは、北米やヨーロッパのようなところの移民の共同体とアフリカと中東のある地域において「伝統的に」実行された習慣である女性器切除である。社会生物学者は必死に女性オルガズムを説明できる進化生物学に基づく理由を見つけようとしてきたが、それは自然選択が必要とする生存のための生物的義務と全く関係がないと発見された。一人の作家が書いたように、女性オルガズムは、男性オルガズムと違って、「快楽のため」にのみ存在するように見える。生物学は条件であり、「運命」ではない。人類の生物の性質は単純に「自然的」なものと限らない。しかし、生物の性質は、社会によって、色々な形を取ることが可能である。例えば、複数の文化が百万人の女児に対して性的損傷ー性的快感を削除することーという習慣を毎年実行することはありうるのである。女性によって女性の中において実行される「自発的」習慣である。女性器切除は、「文化」は「自然」を形づけること、社会は性的役割や他の習慣によって「セクシュアリティ」を形づけることの極端な例であるが、解放の可能性という立場からすると、あらゆる社会のあらゆる習慣は、ある程度、心理学的ものも含めて、「損傷」の形態として捉えることができるであろう。もし女性器切除が実行される共同体の中においてある人がこの「伝統的」習慣を実行しないことにするとしたら、結婚適格性そしてそれゆえに人生における色々な可能性は危険にさらされるので、どのようにしてこの習慣に取り組むべきであろうか。マルクス主義者はどう反応するべきであろうか。このような現象に対する考察を広めるために、アラブ圏と他のところに、強姦のような非自主的な行為も含める性的違反行為を犯す女性は名誉の殺人の対象となるという現象にも取り組んだ方がいいだろう。さらにより一般的な現象に取り組むならば、買春について考えばいいであろう。これは、数百万人の移民の労働者がやる世界的な現象であり、売春だけではなく買春する男の人の人生の可能性は束縛されると言えるであろう。ジェンダー抑圧はこの問題を形づける条件として確かに中心的役割を果たすが、これはただジェンダー抑圧の問題だけではない。明らかに、アフガニスタン人の「踊っている子」の問題のように、必要なのは個人的かつ共同的可能性のための規模拡大のことであろう。重要な課題は、生成の過程における社会的歴史的現状である資本を、経済上、政治上、ジェンダーとセクシュアリテも含める文化上の問題として、そしてそれぞれの分野において可能性を促進したり束縛したりするものとして、捉えることである。人類にとってより破壊的ではない道をどうのようにして開けるのであろうか。
人類の大部分、あるいは単純に言えば、我々の近代という時代における人類の全てのために、ジェンダーとセクシュアリティの可能性を開けるために何が必要であるのか?この発表で取り上げた現象の根本的かつ世界的文脈として資本に取り組むことは難しいが、上の問題に取り組むことをただ始めるための必要条件であろう。現在の世界において蔓延しているジェンダーとセクシュアリティの現象に見出されるいわゆる「非人間的」活動の形態には、歪曲された形態であるにもかかわらず、現在ほとんど想像されえないやり方で、人間となる潜在的可能性が見られる。ミチェルが40年前「最も長期にわたる革命」のエッセイで注意したように、我々は、現在の不満が硬直した形態をとることという問題について考えなければならないし、直面している克服すべき破壊的活動に反対するために、道徳的原則を提起したい衝動にかられることに注意しなければならない。というのも必要な課題は、資本における「生成の運動」を、伝統の崩壊、及び近代の破壊力に直面し反応する「伝統」の怪しい再発から本当に「人間的」成果へと変革しなければならない過程として把握することであるからだ。

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