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「叛乱を革命から解放する」: 長崎浩とのインタビュー 後半

February 27, 2021
by Houston Small

202011月に安藤歴とヒューストン・スモールは日本の新左翼の歴史について、長崎浩にインタビューした。新左翼の起源や高揚、そして衰退の過程を辿りながら、マルクス主義とマルクス=レーニン主義の違い、左翼にとっての党の役割、叛乱及び革命と歴史の関係などを考察した。そもそも新左翼の目標は何であったのか?それをどこまで達成したのか?

 インタビューは二つに分かれており、前半は先月に掲載された。

 

後半

 

6)『結社と技術』や『叛乱論』は当時の運動を背景としながら、組織についての理論的考察を行っており、そこで結社や党という主題が論じられている。60年代から70年代のブントやセクト、その他の組織の活動をどのように捉え、どのように自身の考察に取り込んでいったのか?『結社と技術』を書くことでどのような活動を批判し、左翼におけるどのような変化を生み出そうとしていたのか?それを評価するならば、どのような成功またはどのような失敗であったのか?

大衆の党綱領・戦略の前衛党論を棄てる

長崎:『結社と技術』(1971年)では、叛乱の自己権力としての評議会の組織論を論じました。前衛党の路線主義、つまり綱領・戦略・戦術の理論から街頭闘争の過激化を革命につなげるという路線と対比して、叛乱とその組織化の問題を取り上げたことは、これまで申しあげたとおりです。そうした中で、私は党を二つのカテゴリーに分けて捉えるようになりました。私の言葉では「大衆の党」と「固有の党」を区別するということです。叛乱の自己権力としての評議会はソビエトもコミューンもそうですが、その中に様々な政治潮流を含んでいます。これは避けることができないし禁止すべきことでもない。評議会という枠組みを守りながら、各々の党派が論争と多数派工作をやっていくというのが評議会内部の実情です。叛乱の評議会における諸潮流や党派のことを私は「大衆の党」と名付けます。大衆の党とはだからもともと複数存在する。党というものはそれぞれの党派性に従って、まずは評議会において叛乱大衆にまみえて、他党派との党派闘争も含めて、ヘゲモニー闘争をするものだとして、これを「大衆の党」と考えるのです。

そうしますと、「大衆の党」はまず叛乱の自己権力、つまり評議会をどうやって強化し叛乱の目的をどう実現できるのかということに、その活動が制約されているわけです。党派闘争も限定されます。だから、そこをはみ出してプロレタリア革命とか前衛党の指導だとかのイデオロギーを持ち込めば、評議会の分裂をもたらしかねないわけですね。実際に、全共闘運動に対して、68年のセクトの介入の一面はこうしたものだった。この限界をわきまえて、評議会の中で論争とヘゲモニー争いをしていく「大衆の党」として自己確認すること、党自身が大衆の党をこのように規定しなければだめだということです。これが「固有の党」の役目です。

叛乱の全国評議会

評議会はその強度が増していくと、地方評議会から全国評議会へと結集していきます。そうしないと内部分裂を抑え叛乱として力を発揮し、個別問題を政治的に解決し、持ちこたえていくことができませんからね。でも、全共闘運動の場合には全国評議会の結成には至りませんでした。確かに全国全共闘は結成されたんですが、これは一時的なセクトの野合であることは、当事者には周知のことだったのです。逆に言いますと、個々の評議会、東大全共闘ならば東大全共闘など、個々の評議会の目的を達成するために全共闘の全国評議会がこれを助けるという構図が働かなかった。つまり助けを受けられないんです。だから、各大学の全共闘は自分の大学の時計台を占拠して、独自の課題だけを追求して潰れていきました。全国的な展望のもとに拠点独自の課題を政治的に解決し、叛乱として勝利することができなかった。

固有の党

私は叛乱の自己権力の形成と発展に従属する党派活動を「大衆の党」として捉えます。大衆の党はですから政治的にも倫理的にも叛乱内部に同化して活動します。ところが、党というものがこれにつきる、大衆の党で済ますことができるかというと、そんなことはありえない。歴史的にもまた理論的にもありえないことです。歴史的には、前衛党が叛乱の視野の狭さを批判して、全般的な資本主義批判とこれに根差した新しい社会の展望、そのための戦略の下に叛乱を捉えよと主張する。この方向に叛乱の評議会を指導したい。「全権力をソビエトに」というボリシェビキ・レーニンですね。この観点で叛乱の中の大衆の党と区別されるもう一つの党があります。こうした党は禁止したって避けることができない。この党からすれば大衆の党とは叛乱の中の出先機関(フラクション)ですからね。マルクス=レーニン主義であろうが極右の党であろうが、避けることはできない。この党はもともと叛乱の以前から存在しており、これも多党の在り方をしています。こうした党のコンセプトを大衆の党と区別して、私はとりあえず「固有の党」と名指ししました。 

しかしもっと重要な区別は歴史的というよりカテゴリー的なことです。大体、大衆の党というコンセプトを提起するのは誰なのか。大衆の党は叛乱とともに不可避的に揺れ動きます。叛乱と叛乱の中の党のこの動揺を通じて、それこそ「政治的なものの概念」が呼び寄せられ叛乱の内部に跳梁するということが起きるのです。敵との敵対だけでなく、とりわけ叛乱の諸集団のせめぎ合い(分裂と再団結)から、本人たちをも超越して政治がそれこそ析出されます。叛乱の強度とともに強度を増して政治が出現します。叛乱はこの政治をこなすことが必要になりますが、当事者である叛乱と大衆の党はそのための政治的経験と能力を欠いています。史上数々の叛乱がこうして政治的に潰えて行きました。

例えば、東大全共闘では一年近い全学ストライキと校舎の占拠の圧力により、その当初からの個別要求を大学当局がほとんど受け入れるという局面を迎えました。交渉も妥協もボス交も、またもちろん決裂もありという状況です。運動のこれからを見据えれば難しい選択を迫られました。個別学園闘争としては珍しく、学内闘争が政治を生み出したのです。全共闘運動は「青春の自己確認」だった、などとは次元の異なる政治の瞬間です。例えばこの段階で、にわかに意識に上らざるをえないのが固有の党というコンセプトです。跳梁する政治を取り押さえる党というイメージです。これが固有の党です。現実には組織も名前すらなくとも、また右であろうと左であろうと、カテゴリー的に存在する党のことです。

倫理的共同体と党

固有の党は倫理的共同体という組織性格を排除しなければいけない。前衛党であってはならない。というのも叛乱の集団も大衆の党も、倫理的共同体という組織性格を免れないからです。つまり、あるべき仲間の在り方、あるべき生き方、あるべき私という倫理的命題を全部包含するのが叛乱ですから、それに対応して「大衆の党」も倫理の色に染まる。例えば新左翼セクトでも革共同など、「プロレタリア的人間による強固な共同体」のごとくに自己規定するのも、もともとは叛乱の記憶から来たものなのです。それがいまでも叛乱の中の目立った組織体質として残ったものです。固有の党でなく大衆の党としての性格です。

これに対比して、「大衆の党」を通じて叛乱の自己権力に影響を与えようとする「固有の党」は、倫理的共同体であってはいけない。むしろ、徹底的に政治的であることが唯一の倫理的な自己確認だとして、大衆の党から自己を区別する存在でなければならない。概略こんな風に「大衆の党」と「固有の党」を分けるわけです。

もちろん、実際は難しいですよ。昔からフラクション理論、つまり党は大衆団体にフラクションを設ける。このフラクション理論を「固有の党」と「大衆の党」の区別と分離として、まずは概念化するのです。革命とは大衆自身の事業であるという革命の原イメージを、党の側からこうして徹底しなければならない。政治的にも倫理的にも強調して確保しなければいけない。そういう思いが1968の後にですが強くなっていきました。それで『叛乱論』と『結社と技術』を準備作業と考えて、『政治の現象学あるいはアジテーターの遍歴史』を書いて、自己権力の形成史と党論を議論したのです。

叛乱のアナーキーから結社の組織論へ

それからもう一つのご質問ですが、『結社と技術』と『叛乱論』を出してどうだったのか。ノンセクトと第二次ブントの一部に届いたと言えるのでないでしょうか。今でも初めて会う人には「叛乱論の長崎」と紹介されることが多いですよ。この二冊の評論を書いた時、私が実際に見聞きしていたのは東大の全共闘運動でした。これについては党との関連で先にも少し触れました。話は前後しますが、党ではなく叛乱の自己権力の組織化が『結社と技術』で考えたことです。マルクス主義的革命の歴史で、組織論あるいは階級形成論と呼ばれた論点には大いに問題がある。私はこれを前衛党の指導の問題であるというより、叛乱そのものの性格からアプローチしようとしました。軍隊の叛乱と違って、大衆叛乱は大衆のアナーキーから始まりますからね。主観的行動主義から倫理主義まで、あるいは商店の略奪から暴力まで、何でもありの放埓沙汰を呈する場合だってあるのです。叛乱の組織論はそういう放埓をそれこそ与件として立てられなければならない。ルカーチのレーニン論にある「革命の現実性」という与件の下で組織論を考える。それを結社というコンセプトで論及しようとしたのです。ただ、党の在り方の論点にまでは深入りしていません。「大衆にたいしてストイックな党」として、ブランキやレーニンに触れたにとどまっています。ただ、レーニンの『何をなすべきか』の前衛党論が終始ターゲットだったことに変わりはありません。その自然発生性と目的意識性の対比の議論を、ひとまず徹底的に「自然発生」の現場に差し戻そうと意図したのです。

さてこれが、時の全共闘運動や党派活動にどれほど影響を与えたか。「成功したのか失敗したのか」とのご質問です。成功したとは言えないでしょう。私としては全共闘運動におけるノンセクトラジカルとセクト活動家の接点、その境目に向かって書こうとしていました。日本の1968には日本独特の新左翼諸セクト、その力量というより歴史的遺産としてのそのカテゴリーが、なお強く残っており全共闘運動もその解体、克服ができなかったということです。せめて60年ブントの生き残りとして伝えたい、そういう思いはありましたね。

アナーキーとアナキズムは違う

安藤:アナーキーとアナキズムの関係はどういうものしょうか。

長崎:叛乱がアナーキーだというのは、構成主体が階層でも階級でもないということから、組織的にアナーキーだということですね。軍隊の戦争や叛乱、あるいは労働組合のストライキなどと違って、内的整合性を欠いています。大衆の放埓沙汰です。これまでに縷々述べたとおりです。加えてもう一つ、叛乱というのは心的にアナーキーですね。叛乱は無時間的なユートピアとして高揚するので、自分たちのアイデンティティーにたいする自己否定であるとか、千年王国の形成とか、ユートピア的な未来を描きます。未来への戦略とか政治だとか、道筋だとか段階だとか、そういうものはふっとんでいきなり未来の幻想を抱きます。そうであるがゆえに、かえって叛乱の強度を高めていくわけですから、これはアナーキーですよね。このようにアナーキーであることが叛乱についてまわる基本的な性格であって、第二次インターの分裂からレーニンら革命主義者が直面したのも、実はこのアナーキーだったと私は見ています。ロシア古来のアナキズムがそれを代表してきた面もあります。ボリシェビズムというのは、叛乱のアナーキーに対比して性格付けられるし、ボリシェビキの一党独裁への変質過程もこのアナーキーに対する態度の問題として推移する。これがロシア革命だったという見方です。

アナキズム再生か

次に、アナーキーに対比したアナキズムのことです。最近はアナキズムの再評価のような論調が見られますね。的場明弘が『未来のプルードン』を書きました。ちょっと前には、大窪一志が『アナキズムの再生』と言う本を書いていますがこれもプルードン再評価を含んでいます。それから、協同組合という意味でアソシエーションの評価も盛んであり、これも集産的あるいは個人的アナキズムの流れに位置するかもしれません。全共闘以降の新しい社会運動がここに展望を見出しているかもしれません。

とはいえ、アナキズムの教理にしたがった集団や運動は日本ではマイナーな存在であり続けてきました。それがいま復活再生するでしょうか。私は懐疑的ですけれども、アナーキーでなくアナキズムという雰囲気があるのでしょうね。その分、叛乱とか叛乱における党と政治の問題が事実上散逸してしまっています。アナキズムとアナーキーとは別のことなのです。アナキズムは政治を忌避し、アナーキーは逆説的にも政治を招き寄せます。アナキストたちの政治拒否はかつてスペインの内乱など、数々の革命の悲喜劇を経験してきました。

私はたとえばグレーバーの著書をみてアナキズムの最近のバージョンをうかがうことができ、少々驚いたことがあります。グレーバーは2011年のウォール街占拠闘争の主宰者の一人だったようですが、オキュパイ闘争の組織と運営の仕方を示しています。集会での演説は参加者全員が平等に行うなど、細かい規則を決めてとにかく運動の作法を全員に守らせることに腐心している様子がうかがえます。要するに、細心の注意を払って「政治」の発生を予防しているのです。「予示的政治」という名のもとにです。演説会でも誰かがアジテーターになることを予防する、アジテーターと大衆の関係から政治が発生することを恐れているようです。バクーニンなど、元祖アナキストからずいぶん様変わりしています。最近のBLMのデモを見ても、同様な全員の様式化の映像があります。トランプ大統領派に対抗する民主党左派のこうした振舞いに、私はかえって関心を寄せています。

プルードンと労働のアソシエーション

ところで、先ほどのプルードン再評価のことです。バクーニンの集産主義と違ってプルードンのアナキズムは個人主義ですね。自由で差異性のある労働者を主体とする労働と交換のアソシエーションなんですよ。「労働、労働、またしても労働だ」と本人が書いています。具体的には雑多で手工業的な労働者を主体とした労働の協同組合を構想します。しかしその後は、労働が産業労働に組織されていくというのが、ヨーロッパ近代の資本主義の歩みです。ここに社会民主主義的マルクス主義が根付いて、プルードンでなくマルクスが勝利します。近代の労働というコンセプトの問題が、現在のプルードン主義にもついて回るわけです。実際、労働主体のアソシエーションをやっている人たちって、まず今いないですよね。生産ではなく流通だということで、生活協同組合とか社会的資本が現代におけるアソシエーションになる。

労働の在り方の変容

スモール:労働に基づいていない社会関係は存在しますかね。近代社会に生きているわれわれはあらゆる活動を労働の社会関係として理解しているじゃないですか。マルクス主義の目標は労働そのもの、労働の社会関係を克服することですけど、失業の問題を解決しないと労働の廃止の話を始められないと思います。失業している労働者に対して、賃労働を廃止しなければならないということを言ってしまえば聞いてくれないと思いますね。

長崎:それはそうですが、労働にもとづく社会関係というのが、つまり労働のあり方に、今は大きな変化が起きています。産業主義的、フォーディズム的近代労働のあり方が解体している。労働者は「搾取さえされていない」(ロベール・カステル)、収奪されているだけと言われます。資本と賃労働のその労働のカテゴリーが失われて、非正規労働と失業、デクラセ・ルンペンプロレタリアートの労働です。労働は人間の本源的活動であり、労働は生産的で労働こそが人間の主体的活動だというイデオロギーが信じられなくなっています。労働の悲惨な現状に対して、本来の労働の復権を唱えることができないところに追い込まれています。「労働の自己疎外論」でなく人間疎外論が押しなべて叛乱の衝動になっている所以です。私は後者を俗流疎外論と呼んで、前者に比べてかえって評価しています。

スモール:それが資本主義に対する批判の根源だと思います。産業革命の後に資本主義は労働の保障という約束を全員に提供することができなくなった。資本主義は自らの原則、原理を実現できないから、克服しないといけない。

長崎:少なくとも福祉国家が維持されていた限りは、労働と労働者階級という位置は確保されていたわけですよね。ですから今、アナキズムことにプルードンの再評価があるとすれば、差異性のある自由な労働の共同性をゼロから再建しなければならないという状況のせいかもしれません。時代はマルクス・エンゲルスの時代から一巡しています。

 

7)『結社と技術』において、様々な歴史的時期が触れられている。それはブランキの19世紀半ばの時代、ルクセンブルク・ルカーチ・レーニンの20世紀初期の革命期、そして戦後の日本である。その論文において、「ブランキへの戻り」を推奨しようとしたと言えるならば、どのように戻ればいいと考えたのか?ブランキのような結社は1848年の革命期に生じたボナパーティズムという新しい問題をどのように向けているのか? マルクスによると、ボナパーティズムは社会主義革命を引き起こせるような大衆的社会主義党を必要とした。この必要性はまだ残っているのか?19世紀と20世紀におけるそのような党を作る試みーーそして60年代に「前衛党」を作る試みもーーは失敗したと言わなければならないと思うが、その失敗を認めながらその必要性を主張できるのか?

ブランキスト

長崎:ルカーチやレーニンの話は前に出てきましたので繰り返しません。ブランキについても、「ブランキに帰れ」というのではありません。彼の秘密結社の思想、運動を形作るという芸術的制作の観念を生かしたい思い、その意味で私はブランキが好きだったということです。むしろ今はブランキズムをどう考えるかですね。マルクスとエンゲルス、とりわけエンゲルスの晩年には、青年時代のブランキズムを清算するということを大きな声で言って、このかけ声がドイツの社会民主党を今日の社会民主主義、福祉国家主義に転換させます。第二インターにおけるマルクス主義の大きな転換点です。60年ブントやその後の新左翼にたいする非難も、ブランキズムの廉でなされました。主観的行動主義をブランキストだと非難したのです。しかし、ブランキストで何がいけないのか、トロツキストと呼ばれるよりはよっぽどましだと、私などは思っていました。では、「青春のブランキズム」をエンゲルスのように清算しないとすればどうするのか。

私の考えでは、叛乱というのはただ在るんですよ。否定しようが肯定しようが、洋の東西を問わず、規模の大小にかかわりなく、時期を選ばずただあるのです。聖書の文句を用いて、「暗夜の泥棒のように訪れる」とブランキが言っています。そして私の関心から言えば、叛乱が起こるたびに政治が呼び寄せられるのです。その都度、叛乱の政治体、評議会の強度と力量が問われ、同時に党とは何かが現実問題として浮上します。今回お話しした通りです。

問題をこのように立てるとすれば、マルクス=レーニン主義という革命論の歴史をせめて現時点で清算しておかないといけない。先祖返りの道を少なくとも理論的思想的に断ち切っておくことが必要だと思います。そうでないと、叛乱のたびにまた起きるに決まっている問題です。前衛党が必要だなどといって新・新左翼のセクトが登場します。

永続革命論

ところで、青春のブランキズムと呼ばれたのは、マルクスの場合はその永続革命論のことですね。私はマルクスの政治論で一番好きなのは、1848年革命渦中で書かれた文書です。「共産党宣言」もそうですが、マルクスがジャーナリストとして書いた文書があります。その頃のマルクスは精彩がありました。60年安保の後にマルクスを色々読み直すことをやりましたが、私が論じたのは結局マルクスの永続革命論のことだったですね。

実はこの間ある機会がありまして、この当時のマルクスの記事をもう一度全部読み直すことをやってみたんです。その時に一番関心を引いたのはマルクスの階級論の性格でした。マルクスの永続革命論は時の諸階級のシーソーゲームとして捉えられています。ブルジョワジーとプロレタリアート、その間の民主主義派の小ブルジョワジー、農民そしてルンプロです。ところが、言うところの階級とは実際に誰なのか。経済的にも社会的にも、階級なるものが存在してなどいません。だから諸階級の区別も明瞭ではないわけですよ。例えば、プロレタリアートと言ったって、その頃は組織された産業労働者などいるはずもない。農民を没落する小ブルジョアジーといったってそれなりの集団があるわけではない。ブルジョアだって産業労働者に対抗して階級形成されているわけではない。要は、現実の政治過程の諸勢力・集団のたんなる名辞なのですよ。経済的下部構造に根差して階級を名指ししたのでなく、現にある政治勢力や集団にプロレタリアートなどと名前を付けただけなのです。資本論を書いているイギリスでは、これと違って工場労働者の組織化が始まっています。晩年のエンゲルスでは言うまでもなく、ドイツ労働者階級が労働組合として組織されて眼前に存在します。当時は労働組合費といっしょに社民党の党費も納めていた。私の大学入学のときには、学費と一緒に自治会費が徴収されていたことを思い出します。学生だって学生階層に組織化されていたのです。

階級闘争か叛乱集団の抗争か

ロシア革命でレーニンが固執して止まなかった「階級的立場」も同じことです。労働者階級の立場に立つなどと言っても、たんにノミナルな言明です。それでいて、プロレタリアートの名前で名指しした集団や傾向は、ロシア革命の推移で現実に存在し、それが革命の帰趨を握ってもいたのです。トロツキーの『ロシア革命史』になりますと、これが革命のダイナミズムと呼ばれ、その名の通りに精彩ある記述になっています。レーニンの政治文書だって、プロレタリアートの経済下部構造にこだわらなければ、結構ダイナミックに読めますよ。要するに、政治集団の競合という意味で、私はマルクスの永続革命論が好きなのです。現に運動に直面してその中の諸勢力を色分けし、そこに仮に名前を付けたのが階級の名によるマルクスの永続革命論ということです。

ただ、マルクスはこれを反省し、革命運動を駆動する恐慌そして工場労働者に注目して、『資本論』という作業に没頭していき経済学批判を作り上げていく。言ってみれば永続革命論から逸れていきます。たしかにそうした中で1871年にパリ・コミューンに遭遇します。ここでまさしく、叛乱と叛乱の組織体である評議会コミューンの自治が地域的に組織されました。これに最大限の評価をマルクスが与えるでしょう。けれども、マルクスの当時の経済学的な問題意識からすると、マルクスはパリ・コミューンに「ちょっとよろめいた」んですよ。48年の永続革命論からマルクスはいわゆる階級革命論とその経済的な根拠に関心を移す、その道筋に本来パリ・コミューンは位置できるものではなかったという意味で、コミューンの突然の出現によろめいた、寄り道した。エンゲルスから言えば、これは清算すべき対象ですよ。

レーニンとコミューン

レーニンの場合も同様です。『国家と革命』、つまり10月革命のさなかでレーニンはマルクスに従ってパリ・コミューンの継承を宣言しました。これがまた、レーニン自身をジレンマに追い込んでいく。レーニン自身もコミューンに「よろめいた」わけです。彼の前衛党革命論からすれば、全権力をソビエトへ、ソビエトの自治と自己権力を称えるのはアナキズムでしょう。ソビエト政権がパリ・コミューンより一日だけ長く生き延びた日に、わざわざそのことを演説で指摘したくらいです。だから、アナキストたちを含めた諸集団をソビエトは包含することもできたわけです。ところが、権力を取って一年かな、特有の困難がロシア革命を襲ってくる。ロシアのように遅れた国だけでプロレタリア革命などありえないのに、ドイツの労働者が助けに来てくれない。白軍との内戦を戦わなければいけない。遅れたロシアで労働者階級はどこにいるのだ。こういう沢山の困難に直面して、党の指導と独裁、分派の禁止、ネップへ寄り道と、ソビエト国家建設路線に転換していくわけですね。そういう意味では、パリ・コミューンの存在はマルクス=レーニン主義の一種の鬼門として存在した。「マルクスは死んだ、マルクス万歳」と同じように、「革命は死んだ、革命万歳」と若いマルクスは言っていますね。ここを通ると後には戻れないという、聖書の言葉通りの関門にパリ・コミューンがあった。

 

8)「叛乱」の「以前」をどうとらえるのか?20世紀初期の「叛乱の時代」は急に起きたわけではない。1871年のパリ・コミューンから20世紀初期の革命期までに第二インターの成長は西欧資本主義の発展を加速化し、その発展はロシアにおける急速な資本主義化をもたらした。これは1905年に始まった革命期の前提条件となった。叛乱のない時代においてどんな活動を取るべきであろうか?叛乱の『準備』はどうすればいいのか?

1968の終わり

長崎:ご質問の前半に関しては、先ほど話したことですね。パリ・コミューンがマルクス、レーニンにとってどのような位置を占めたかということでした。では、叛乱のない時期にどういう活動をすべきか。日本の場合は、この50年間のブランクをどう考えるかということになると思いますけれど、この間に世界資本主義の加速化が極限に達している。産業労働者と社会民主主義の福祉国家が終りを告げた時代ではないかと思います。日本だけではありません。この半世紀は60、70年代とは別の時代に入っています。その意味で、学生層を主体とした全共闘はいわば最後の学生運動になりました。学生運動がこれからはもうなくなるという意味ではなく、「1968年の世界革命」(ウォーラースチン)を一時代の終りとして認識しておく必要があるということです。

オルグ集団

もともと「叛乱はただ在る」といってもゼロから始まるなんてことはないのですよ。いつの時代どこにおいても、必ず叛乱を組織する集団があります。現在もあるでしょう。このような活動家集団をオルグと昔は言っていました。最近、ある若い人たちの勉強会でいま必要なのはオルグだと言ったのですが、オルグという言葉が通じませんでした。オルグはもう死語になっている。別に学生運動だけではなくて、日経連が経団連に変わり、総評が連合になった時、それぞれがオルグをなくしたそうです。かつてはオルグがブルジョアと労働者の階級形成のために全国に派遣されていました。総評がオルグを持っていたのは当たり前ですけど、日経連にもオルグがいた。経団連と連合になるときにそのオルグを廃止したのです。だから、連合という組織は文字通り労働組合の連合であって、全国の労働組合運動をオルグして束ねる中枢組織ではもはやない。経団連は日本ブルジョアジーの司令塔ではない。オルグって言葉が死語になった社会が、この50年間です。

学生運動だって同様でしょう。昔は学生が無償のオルグとして働いたわけです。総評と違って賃金払わなくてもいいわけです。だから、全学連におけるブントの「私」というのは、ブントのタダ働きオルグだったんです。オルグは何をするかといえば、全国の自治会を回って学生運動を組織し、運動を過激化する。ブントの労働者オルグであれば「労働運動の左翼的再編」を推し進める。そのためのオルグだったわけです。こういう意味で、学生活動家をタダのオルグとして使えるというのがその頃のセクトの特権でした。学生活動家がブントというセクトに盟約して結集する時の核となるものもここにありました。学生運動だけが目的でないわけです。運動も叛乱も無から始まらないとはそういう意味ですね。

だいたい、日本のことだけを見るとまちがいます。欧米諸国を例にとっても少なくとも2011年からは、大衆の街頭蜂起が世界的にどこでも起こっています。例えば、今タイでも連日のデモが起きていますね。あれは安保闘争のタイプで全共闘運動のような叛乱じゃないですよね。特に2019年は、香港の運動など、全世界でちょっと枚挙にいとまがないほど民衆蜂起が発生しました。それぞれの地域性や国民性に拠りながら、目的も形態も雑多多様です。それぞれが蜂起しては消えていくように見えます。運動がこういうサイクルに入ったのかもしれません。日本でも数年前になりますが国会前デモが繰り返されました。

西欧社会民主主義と資本論に反する革命、そしてポピュリズム

マルクス主義の革命運動は第二インターの分裂とロシア革命を契機に二筋に分かれます。ひとつは西欧の社会民主主義です。他方ではロシア革命から一連の後進国の革命が、中国からカンボジアのポル・ポトまでというふうにつながります。グラムシに言わせれば「資本論に反する革命」です。マルクス主義の歴史では、国家権力を独裁したのはこれら「資本論に反する革命」だけなんです。そしてこれら社会主義国家権力も、結局は近代革命の一変種、奇形の近代国家を残して終わったというのが事実です。社会主義世界体制の崩壊とはこのことです。

他方では、西欧の社会民主主義と福祉国家が今ポピュリズムの台頭に直面していますね。米国のリベラル民主主義もそうです。この福祉国家は西欧マルクス主義とブルジョアジーとの階級的合作、妥協の産物として形成されました。ブルジョアの第一勢力と労働組合を中心とした第二勢力と私は呼んでいます。福祉国家の危機とは第一第二勢力の連合としての社会国家が、第三勢力とも言うべきいわゆるポピュリズムの抬頭によって左右から攻撃されている。時代は「第三勢力の徘徊」だというのが私の見方です。2011年以降の大衆の街頭蜂起も第三勢力の叛乱です。ただ往時と異なり、第一第二勢力自体が階級的力を失っていますので、対抗する第三勢力もなかなか組織化できていないのが現状でしょう。ファシズム化しないし、蜂起しては消えていきます。大衆蜂起の「強さと脆さ」が指摘されるのもこの点です。この点で注目すべきはスペインの地域に根付く地方党とこれを基盤にしたポデモスです。何しろバクーニン由来の集産主義的アナキストの故郷ですからね。

先ほどはボナパルティズムの話が出ました。二大勢力の対立の間隙を抜け駆けして勢力を強めて権力を握る者、これがマルクスの定義ですね。ブルジョアジーとプロレタリアートの対立の隙間に、小農民を基盤にボナパルトが大統領になりクーデタを決行した例です(いや、小農民でなく労働者だった、というのがプルードンの見方です)。この意味では今日の第三勢力の蜂起もボナパルティズムの性格を持っています。ただ、第一と第二の階級的勢力が弱化した時代ですから、ボナパルティズムもボナパルティズムたりえていない。右からの場合も、かつてのナチ党とヒトラーのようにファシズムになれない。情勢がなお混とんとしているのはこのためです。

さて、ということで、右であれ左であれ第三勢力をオルグすること。理論的にはマルクス=レーニン主義の革命から叛乱のコンセプトを解放する作業が残っていると私は思っています。叛乱の準備はどうすればいいかというご質問についての、これが私の応答です。

9)「叛乱」の「後」についても聞きたい。歴史とその経験の関係はどうなっているのか?叛乱の帰結としてさまざまな新たな活動が生み出される。では、叛乱の経験において何が学ばれるのか?何を学ぶべきなのか?何を学ぶことができるのか?それとも、各叛乱はその叛乱に特有の組織しか生み出すことができないのか?レーニンとルカーチーーそして長崎さんもーーは、ロシア革命の経験の誤った絶対化について第三インターに注意を与えた。ルカーチの言葉を借りると、長崎さんはある特定の政治形態ーー特に前衛党ーーの物象化に対して注意を与えようとしたと言えるであろう。しかし、レーニンとルカーチは、この教訓を保つために、党が必要であると主張した。われわれは大衆叛乱から学んだことをどう保持できるのか?

新しい社会運動と地方の叛乱

長崎:ご質問のだいたいはこれまでに触れてきました。大衆叛乱の自然発生性という弱点を指摘して党が必要だと言われます。話は逆で、大衆叛乱がかえって党を呼び寄せるのです。政治がこれに応答する形が党というものであり、これまでの前衛党論は全部立て方をひっくり返さないとだめです。でも、繰り返すことは止めにして、ここでは叛乱の後のことに話を持っていきましょう。

1968年の世界的な学生叛乱が終わった後に、むろん前衛党が国家権力を握ったわけでもなく、しかし結果として近代二百年を終わらせた「成功した世界革命」だと評価もされます。この意味で社会主義の崩壊以上に重大な画期だったというのがウォーラースチンの評価です。私たちはこの世界革命の後の世界に住んでいます。しかし他方では、一般に1968は「新しい社会運動」に引き継がれたと言われていますね。差別反対闘争や環境保護運動、地域運動であるとかです。これには二つの特徴があります。ひとつは労働者ならば工場、知識の生産点と言えるとすれば大学、この生産点での闘争ではないというのが新しい社会運動の特徴です。つまりサンディカリズムではない。全共闘運動がこういう形で世界的に引き継がれたといわれて、現在では新しい社会運動とその評価について様々な言論と研究が出ています。欧米でもそうだと思いますが、この新しい社会運動をどう考えるかということが、叛乱の後のひとつのテーマだと思います。新しい社会運動は第三勢力の運動として組織化されるべきですし、欧米では事実そうした働きをしています。BLMだってそうでしょう。ただ日本では、第一第二勢力の階級意識と階級形成が先鋭でないために、対抗して第三勢力の意識も育たない。

叛乱後の運動のもうひとつの趨勢として、もし叛乱が力ずくで鎮圧されないとしてですが、大衆叛乱が個別化していきます。例えば、全共闘運動の後には水俣問題、三里塚闘争、公害反対闘争、それに学園の民主化に精を出した人たちもいます。当時の回顧録を読むと、叛乱がばらけていく様子がよくわかります。多様化あるいは雑多化するわけです。同時に、内ゲバのような犯罪を残すことも起きます。叛乱というのはうるわしい革命でも何でもない。うるわしい革命などはないのであって、革命はいつもその息子たちを喰らって進みます。

体験と普遍史

このように全共闘世代の体験記を読みますと、各人がぞれぞれに引き裂かれていきます。そうであれば、それぞれが置かれた分野で新しい社会運動に精を出すだけでなく、かつての体験を経験として歴史化してもらいたいと思います。それを仮に「体験と普遍史」という風に「と」で結ぶとします。「普遍史」というのは、もともとはユダヤ・キリスト教の救済史、世界史を救済の歴史として歴史化することです。この救済をキリスト教ではなくて革命と言えば、マルクスの歴史観になりますが、これを世界史の法則と言わないで「普遍史」と言う。かつて叛乱の中で体験したのは、「普遍史」を信じた上での体験だったわけですね。だから、どんなに個別的で小さな叛乱だったとしても、そこにかかっているストレスというのはこの「体験と普遍史」の「と」だったのです。つまり、「普遍史」からのストレスを受けながらの叛乱です。このことが忘れられたら困ります。最近の回想録を読んでの感想です。もう一度、この「と」の緊張を運動の中でまた回顧録としてよみがえらせてほしいと願っています。そのための思想が要求されます。前衛党や新左翼という言葉は今では死語となっていますし、これは決してよみがえらせてはならない。過去を敬意をもって葬っておくことが大切だと思います。もし1968年の叛乱の経験が今の若い世代にも何らかの教訓になるとすれば、あれは「世界革命だった」ということです。この世界革命ならではの叛乱を「体験と普遍史」として歴史にすること、とりわけこれが全共闘世代に残された課題だと私はくり返し言っています。したがって、叛乱が新しい社会運動に発展的に解消したみたいな見方は違います。新しい社会運動から逆算して68年叛乱を位置づけるという歴史観が、現在若い世代の研究者から出ています。これでは日本の場合でも1968年の問題を矮小化することになります。

経験の世代間継承

安藤:組織、人間の集団で経験し、次の世代や違う人に伝えていくことがあると思うのですが、人間集団の中で受け継がれていく話があると思います。集団において前の世代の経験を次の世代に何らかのかたちで伝えていく。そういうものとしての組織は必要だと思いますか。

長崎:オルグの集団が必要です。問題はオルグの言葉、他者を説得して組織化する際の言葉です。68年は政治の文体を変えたと私は言いました。端的にいって政治文書が「われわれ」でなく「私」を主語として書かれる。しかしだからといって、この私が集団的私でなくただの個人だなどと受け取ってはいけません。私は私を、そしてわれわれを「説得する」言葉を吐いているのです。説得することがオルグの言葉です。では世代間の経験の受け渡しはどうなりますか。68年世代は酒場で武勇伝ばかりと、若い世代は言います。この50年間のブランクを思えば、世代間の交流は絶望的にも思えます。せめて、古い世代は自分の体験の語りを作り出さないといけないと先に申しました。この50年間を歴史にする、歴史の物語にすることを通じて、世代を超えて経験を伝え共有する語り方をしなければならない。68年世代もこれからはヒマができる年代です。ことにかつての新左翼セクトからの発言が欲しい。セクトの物語がまだ圧倒的に乏しいままです。

党が語るということ

体験の語りという点では、集団の交流でなくともよいではないかと言われれば、それはその通りです。集団的な経験の継承、実はこれはセクトの重要な仕事だったのですよ。いや、セクトというよりは、党というものの仕事です。例えば、レーニンは1905年の革命を経験した後に12年間ジュネーブに亡命していました。1917年に革命のロシアに返ってきます。12年間この人は何をやっていたんだといえば、その間にボリシェビキの育成を続けていたわけです。狭い亡命者仲間のうちでセクト的な党派争いを続けていただけという評価もできますが、党というコンセプトを受け渡していたとも言えるわけです。党を「大衆の党」と「固有の党」に分けて考えるとして、この「固有の党」というのは、「大衆の党」と違って叛乱にいつも先立って存在しています。そういう性格を持っています。つまり、かつての叛乱経験者の集まりです。それに対して、「大衆の党」は現にある叛乱の中で党派活動する人たちの集団です。そして、この集団のうちには古い世代、12年間亡命して帰ってきた人がいます。人物として存在しているというより、コンセプトとして党が受け渡されるわけです。これが「固有の党」なのです。ただし誤解のないように、前衛党なのかボリシェヴィキなのかではありません。カテゴリーとしての党というもの、名前のない党のことです。党が隔てなく語りかけています。今日の若い世代の集団のうちにも、党というコンセプトが回帰して吟味にかけられます。そうと意識されずとも叛乱と同様に、党はただ在るのです。もちろん大衆は忘れています。忘れることが大衆の特権なのです。

 

10)70年代になると、都市における運動だけではなく地方における闘争も重要になってきた。これはなぜであったのか?当時の団体はどのようにその必要性を感じたのか?長崎さんの思想とどう位置付けるのか?この変化を長崎さんはどのように捉え、評価しているのか?長崎さんが関わっていた地方党の活動は、この潮流とどのように関わるのか、どのような問題意識を当時抱いていたのか?

地方の消滅へ

長崎:当時、70年代後半の私たちのスローガンは「第三勢力と地方党」というものです。この意味を申し上げますと、まず70年代は日本から地方というコンセプトが消滅する時代なんです。地方が自分のエゴを主張することが同時に政治的でもありえた最後の時代だったのです。例えば原発反対運動は、もちろん地方を守るというエゴでもありましたが、政治的な意味を持って運動としてあったわけです。三里塚空港反対闘争もそうです。自分の農地を守るというエゴには違いないが、それが全国的な闘争にまでなる。戦後政治過程の時代が地方では70年代まで後を引いたと考えたらいいと思います。それ以降のことを考えると、よくも日本の高度経済成長社会は地方を絶滅したものだと感嘆します。60年安保闘争の市民革命が残した禍根でもあるでしょう。この絶滅期に地域闘争が各地で頻発しました。ただし、頻発するんだけど戦後政治過程は安保で終わっています。将来の政治的展望があったわけではないところで闘われました。そのように、例えば公害反対運動が各地で頻発したけれども、企業及び国家の努力により公害が完全になくなったわけではないですが、一応は終焉する過程が進んでいったわけです。

地方党の経験

そういう時代に、新左翼をもうやめにして都会を捨て、最後の「地方」を闘おうと、私のグループは思いました。地方に出かけて行きました。私もつてを頼って地方各地を回って、地方の闘争の人たちや戦後労働運動や農民運動の生き残りの人たちのところを巡回して、地方党を作ろうよとオルグして歩きました。地方にとって最後のチャンスだったと思いながらやったことです。ひとつ個人的に面白いと思ったのは、もう一度日本の歴史と思想に目を向ける機会になったことです。例えば、私は茨城県で茨城地方党という組織で知事と参議院の選挙をやりました。すると行く先々で地方の歴史にぶつかります。愛郷塾関係者と5.15事件の三上卓以来の水戸右翼の人びと。それから、親鸞以来の日立門徒がまだ部落として残っていたりします。左翼の側では、常磐炭鉱の大ストライキが炭鉱閉鎖の時にあったんですが、その生き残りが県北にはおられました。日立市で演説した印象から、「プロレタリアートはいないがプロレタリアはいる」と書いたこともあります。それから県南には常東農民運動という戦後の農民運動としては極めて戦闘的な農民運動があったわけですが、この当事者たちとも地方党を一緒にやる必要がある、などなど。地方が保存してきた叛乱の記憶に触れたわけです。この記憶に助けられて、地方党を第三勢力として作っていこうと。当時は自民党と社会党がまだ万年与野党として存在していた時代ですから、その両方に反対する意味で第三勢力と自らを捉えてやったことです。ただし、地方が絶滅する趨勢ですから、長続きはしませんでした。

地域闘争から自己権力へ

70年代の三里塚闘争についても基本的には同じ関わり方です。ただし、三里塚闘争は当時特別な位置を持っていた。1968の人たちのその後の結集場所になったということで、それが70年代いっぱい続きました。68年と70年安保の代替戦場というような機能をはたしました。ポスト全共闘で三里塚闘争に関わった人たちは非常に多いです。私なんかが茨城県に出かけて行ったのとは違ったあり方をしていたようです。ですから、三里塚闘争は特殊に長引きました。ただ私たちには、三里塚反対同盟の青年行動隊の中心メンバーに、昔の全共闘でブントだった人がいるというつながりがありました。反対同盟は地域の自己権力として自立すべきだということ、三里塚を「テロと治安」の舞台にしてはいけない、その時期に来ているという方向で政治的な助力をする形で介入したのです。三里塚反対同盟と自民党政府との交渉を仲介することを、70年代の末にやりました。地方の問題、地方における運動と私自身のかかわりは概略このようなものです。

第三勢力としてのポピュリズム

今世紀に入ってからですが、私はわざと何十年も前に唱えた「第三勢力と地方党」をもう一回持ち出しています。先にもお話ししたように、第一勢力としての資本家階級、第二勢力としての労働者階級を代表する政治勢力が組んで、福祉国家の国家権力を戦後長いこと維持してきましたが、その福祉国家が衰退していくわけですね。日本の55年以来の社会党と自民党の万年与野党の関係もそうです。この体制が冷戦の後に解体の兆候を見せて現在にいたっています。

そういう中で、左右のポピュリズムが欧米を中心に起こっている。これは政治的な第三勢力の誕生だと捉えて、「第三勢力の徘徊」という論文を書いたことがあります。昔唱えたのと意味も時代も違っているのですが、現在の政治の基本構造についての私の見方はおおよそこういうものです。これに関連してようやく再度、地域の重要性が復活しているんだと見ています。というのも、選挙だけが手段でなくポピュリズムの中には地域性を持っている政党が結構あるんですね。とりわけヨーロッパではそうでしょう。バルセロナ地方党などスペインにはたくさんの地方党ができています。この地方党と組んだ全国的な政党がポデモスです。ヨーロッパ議会、それからスペインの国内政治の文字通りの第三勢力として登場して現在に至っている。この構図をモデルにして見れば、イタリア、ギリシア、オランダ、フランスもそうでしょう。ドイツでも州政治を基盤にして、キリスト教民主同盟と社会民主党ではない第三勢力が登場している。アメリカでもトランプを支持した人々はこれでないかと思っています。

そもそも叛乱が右か左かということは、少なくともその当初は叛乱の定義に含まれません。ポピュリズムは左でも右でも大衆蜂起という観点では叛乱の始まりです。ただし、多くの場合には、投票、選挙という手段に限られているので、地域に根差した叛乱の集団という性格をなかなか持てないでいる。私は左右のポピュリズムが対立しながらいかに土着していくことができるかということに、叛乱の趨勢を読みたいと思っています。これが地方党ということです。

 

11)現在、マルクス主義、社会主義や共産主義についてどのように考えているのか?長崎さんは「マルクス葬送派」の対談にも参加していたが、その時点でマルクス主義のどこを批判しているのか?マルクス主義の死が告げられた時以来、解放に向けて社会を変革できる勢力または運動が生じてきたのか?60年代に旧左翼を克服したと主張した新左翼は80年代の非政治的左翼を生み出しそれは結局現在の左翼の弱体化につながっている。その流れに照らして、どのように新左翼を総括し評価すればいいのか?現代に、結社のような組織問題をどのように捉えているのか?現在、そのような組織問題を実践するとなれば、どのような形を取るのか?

政治と党のことばかり

長崎:今回は終始マルクス主義の革命と党、それに叛乱に関してご質問を出していただきました。最近では珍しいことです。それで私としても過去の著作を思い出しながら精々応答したつもりです。

ついでに、70年代以降の私自身のことを申し上げておきます。70年代いっぱい政治と関わり、また関連した評論を書き続けました。ただ、様々な意味で食い詰めて、ちょうど1980年に私は地方の大学に助手として復帰することにしました。たまたま職場が大学病院だったので、それとの連関で身体運動に関心を向けて『動作の意味論』という本を書きました。同時にたまたまのことですが、環境技術の普及活動に携わって地球環境問題に関心を持つようになります。実際に何やっていたかというと、環境問題に資する農業と環境の技術を農家を中心に普及して歩くという活動です。組織としては、まだNPOがない頃ですがNPOに類する機関を作って、そこでの普及活動をやります。私は退きましたがこの集団は今でも活動しています。

地球環境問題の再登場

こうしてはからずも地球環境問題に関与することになって、その理論問題を『思想としての地球』という本に書きました。今世紀初めのことですがそれから20年ほどの中だるみがあって、現在もう一度地球環境問題がトピックになっています。地球温暖化と気象異常です。中国が2050年までにガソリン車を廃止すること、これに伴う中国市場の帰趨がひとつ、もう一つは環境問題への配慮が資本の投資先に考慮されることです。異常気象の激化もさることながら、これらのブルジョア的関心のために地球環境問題の今回のブームは長続きすると思います。いざとなればブルジョアジーにできないということはないのです。加えて現在の新型コロナウイルス感染症のパンデミックも地球環境問題だというのが私の見方です。関連して最近「地球環境問題としての情報技術」と「コロナ小括」という文章を「情況」誌に書きました。

ポストモダンから歴史へ

1980年を境にして、アメリカでも日本でもポストモダンの思想がマルクス主義に対する反動として一世を風靡することが起こりましたね。私は事実上この思潮から逃亡したというか、置いてきぼりを食った形です。フーコー以降は翻訳で読んでも歯が立たないし、「思想の土着化」と称してむしろ積極的に読むことを止めたということもあります。ただ、ついでに言っておくと、ブランショとジャン=リュック・ナンシーについては「永遠なる序章」という共同体論を書きました。

今世紀に入ってからは『情況』の編集者が代わったこともありまして、もう一度68年以降の運動に関して、今度は自分の経験としてではなく、それをどのような語り口で歴史にすることができるかと意識しながら、何冊かの本を書いたというのが現在までの流れです。マルクス及びマルクス主義には、経済学があり、哲学があり、歴史があり、その他様々あって、それはそれなりに興味を持っていたし、若い頃には勉強したことがあります。でも結局のところ私が関心を持ち続けたのは、マルクスおよびマルクス主義の名による革命論の系譜なんですね。意識して選んだテーマというわけではないんですが、たまたまこれにこだわって書いてきたというのが、わたし自身について言えることじゃないでしょうか。

 

 

 

 

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